おうちさんとわたし。

無職おひとりさま50代女性の家づくりと日常

恐怖! 投資信託が下がる下がる下がる

こんにちは。日凪子です。

お金の運用は元本保証が第一の私は、初めての投資信託で忘れられない失敗をしています。
あれはまだ小渕総理が存命のころ。
学生時代に預けた定期が次々満期を迎え倍になって戻ってきて、私の資産は1000万円を突破しました。
嬉しくて、泊まりにきていた父に、
「貯金が1000万超えちゃった〜」
とニコニコと報告したら、
「なら日凪子も投資信託をはじめてみたらどうだ?」
と軽いノリで勧められたのでした。

父は普通の会社員ですが、株が大好きな投資オタクです。私が物心ついたときから楽しそうに売り買いしていました。
小学生だった私のお年玉まで、
「貯金するなんてもったいない。お父さんが株で増やしてあげるから」
と運用に回してしまったほどです。
そんな父は、
「いや、まいったな〜。また下がっちゃったよ」
と、けろりと語り、よく幼い私をはらはらさせたものです。
いつかうちはお父さんの株で破産するかもしれないと、本気で心配していました。

なので素人投資家の父を信用していたわけではまったくなかったのですが、
「お父さんの投資信託は、1年で2倍になったよ。日凪子も口座を開設しよう」
ほくほく顔で語る父に連れられて、忘れもしない池袋のD証券を訪れたのでした。

2倍になったよ、なんて言われたら、やっぱりぐらっときてしまいますよね。

このときの私の投資額は300万円です。
担当者が提示したのは、ちまちま積み上がってゆく安全なプランと、ぐいぐい上昇してゆくアクティブなプランでした。
もちろんアクティブなプランのほうがリスクは高いです。
私が2秒で選んだのはアクティブプランでした。
しかも積み立てではなく、一括買いです。

元本保証が大好きな私が、なぜこれっぽっちも迷わずアクティブプランに飛びついたのでしょう。
父の「2倍になったよ」に惑わされて、理性が消失していたとしか思えません。
今のおうちさんのドアの色を決めたとき、秒でオレンジを選んだ私に一言もなかったように、このときも隣に座っていた父は、私を止めませんでした。

内覧日にオレンジまみれの部屋で、
「どうして止めてくれなかったの〜」
と半泣きの私に、
「だって日凪子の家だし」
と、けろりと答えたように、日凪子のお金のことは日凪子が判断すべきことで、親が口を出すことではないと考えていたのでしょうか。

私は能天気に、わー、これで来年は300万が600万になっちゃうんだ〜と妄想して、わくわくうきうきしていました。

本当に愚かでした。
1年で倍になったものは、簡単に1年で半分になるのです。

小渕総理が亡くなり、私の投資信託はどんどんどんどん下がってゆきました。
数ヶ月に一度、D証券から資産状況が封書で送られてくるのですが、まるで地獄からの不幸の手紙でした。
封を切るのが怖いっ。
恐る恐る開いて心臓が止まりそうになる、の無限ループです。



1年間一度も上がらず、ひたすら下がり続けるだけなんて、罰ゲームにもほどがあります。
投資信託はプロの証券マンが運用してくれるから安全じゃなかったの?
1年で倍になるんじゃなかったの?

私が「また下がった〜」と涙目で訴えるたび、父は、
「いいから、売らずに持ってなさい」
と、のんびり言い続けていました。

300万が半分の150万になったとき、ついに限界が訪れました。
もうこれ以上は無理。
もうヤダ!
もう売る!

こうして私の初めての投資は、大惨敗に終わったのです。
株価が上昇に転じたのは、その直後でした。
「だから持ってろって言ったのに。一番底値で売っちゃうんだからなぁ」
父に残念がられましたが、150万がさらに半分の75万になったらと思うと、とても耐えられなかったのです。

父は多少責任を感じたのか、それとも最初から失敗分はカバーしてくれるつもりだったのか、私の口座に200万円振り込んでくれました。
損失分の150万を引いて結果的に50万円の利益が出たわけです。
安堵よりも脱力のほうが強くて、やっぱり私は元本保証がいい、もう株も投資信託もやらない、と誓ったのでした。
以後10年投資とは無縁で、ちまちま定期を作り続けていました。

そして10年後、ちょっとだけ転機が訪れるのです。