ならばコレはどうでしょう?
こんにちは、日凪子です。
喉の老化を防ぐため、普段から声を出すようにしようと考え中です。
一人カラオケがダメなら、音読はどうでしょう?
これはちょっと……引かれるかもしれませんが……実は私は子供のころから日常的に小説や漫画を音読していました。
国語の授業中に音読で当てられると、それはもううきうきして、丁寧に感情を込めて読み上げたものです。
小学一年生のとき、担任の先生が「まぁ、上手ねぇ!」と褒めてくださったのが始まりで、それから音読がどんどん好きになりました。先生に「お手本を聞かせてあげてほしい」と頼まれて、他のクラスまで出張して教壇で教科書を音読したこともあります。クラスや学年を代表して、お礼の言葉を述べる役目もよく回ってきました。
もともと声の通りが良かったのと、多分、発音が標準語だったせいでしょう。
3歳まで、さいたまの浦和で過ごし、そのあと父の転勤で東北の地方都市に引っ越しました。
小学生から中学生まで、先生たちに、
「日凪子さんは転校生ですか?」
と、よく訊かれました。
当時は理由がわからなかったのですが。
大学生になって上京し、休暇で帰省するようになって初めて、私が話している言葉と故郷の言葉はイントネーションが違うことに気づきました。
電車で故郷が近づくにつれて、周りから聞こえてくる声に、あれ? と思って、こんなに発音が違っていたのかと驚きました。実家にいたころはまったく違和感がなかったのに。
大学生になるまで標準語を保てたのも、毎日音読をしていたおかげかもしれません。
自分の部屋で、それは楽しく小説や漫画を音読する日々でした。
私が神さまのように崇拝している小説家さんがエッセイの中で「小説を読んで一人芝居に突入するのは、誰でもしていることだと思っていました。それくらい音読は自分にとって日常的なことだったのです」と書かれていて、
わたしも!
わたしも音読してます!
一人芝居してます!
××先生と同じだ〜〜〜〜〜!
と、ものすごく嬉しかったことを今でも強烈に覚えています。
小説や漫画を声に出して読み上げることは、私にとって当たり前のことで、大好きな悦ばしいことでした。
声に出すことでリズミカルな文章はますます生き生きし味わい深くなり、感情を込めることによって登場人物の気持ちに同化して、物語の世界にいっそう深く入り込んでいったのです。
なのに、いつのまに音読をしなくなってしまったのでしょう。
あんなに好きで、あんなに普通のことだったのに。
また音読をはじめてみようと思います。
あのころほど没入はできないかもしれないけれど、無職の私には時間はたっぷりあるのですから。